塾講師のつれづれ日記

塾の講師をしながら考えたことを書いています

やれば出来る子ってこういうこと

宿題をやって来ない子がいました。その宿題の内容が出来るか試しにやってもらうと、やり方を忘れてしまっていて全く出来ませんでした。そこで、考え方のヒントになることを少しだけ言って、もう一度挑戦してもらいました。少し時間はかかりましたが、自分で答えを出せました。それと同じ内容の問題を4問練習してから、それを発展させた問題をやってもらうと、ノーヒントで出来てしまいました。

宿題をやって来なかった時点では「出来ない子」が、40分後には「出来る子」になっていました。やれば出来る、やらなければ出来ない。とても単純なことだとわかります。

奇跡は自分で起こす

「奇跡が起きますように」・・・例えば病気の時、自分の努力ではどうすることも出来なくて、神頼みのようなニュアンスで「奇跡」という言葉を使います。ですから、奇跡は自分以外の何かによって起こるものだと思っています。でも、これが勉強となると話は違います。奇跡は自分で起こすものです。「奇跡でも起こらないとその高校は無理です。」と言われた時、「今までよりは頑張った。後は奇跡を待とう。」なんていうくらいでは、奇跡は起きません。絶対合格してみせるという覚悟で、どんなことにも負けないで頑張り続けた時、合格という奇跡をつかみ取れるのです。努力し続けた人にだけ奇跡は起きます。

やらないと出来ない子

“やれば出来る子”という言葉があります。おそらくみんな“やれば出来る子”です。ところが、「やれば出来る子なんやから、勉強やりや。」と言われてもやらない子がいます。面倒だからということが理由ですが、そのほかに、やれば出来る子と言われたことに安心してしまうということがあります。自分はやれば出来る子なんだから、そのうちやれば出来るようになるから、今はやらなくていいや・・・という甘えです。

“やれば出来る子”を“やらないと出来ない子”という緊張感のある言葉に変えて、頑張りましょう。

自分の「普通」は世の中の「標準」じゃない

「普通」という言葉は「標準」という感覚で使われることが多くあります。

「普通〇〇だよね。」という時の感覚です。ところが、たくさんの人と関わっていると、「普通」が実にばらばらだと気づかされます。学校から帰ったら、とりあえず学校の宿題をしてしまって、それから休憩する子。先にくつろいで、テレビを見て、ゲームをして、残った時間でその時間だけ勉強する子。「普通、先に宿題するよね。」「普通、休憩でしょ!」それぞれががその人の普通になって、そのうちに、それが世の中の「標準」と思うようになります。そして、この「普通・・・」の違いが結果の違いを生みます。標準と思っている「普通」は、自分の都合に合わせた「普通」かもしれません。

意識して「見る」

私は以前、生徒に「この教室に掛けてあるカレンダーの絵が何か知ってるか?」と聞いたことがあります。よく目立つところにカレンダーは掛けてあったので、見ていないはずはないものでしたが、その生徒は答えられませんでした。“見えているだけ”と“意識して見ている”の違いを教えたくて話したことでした。街を歩いていればたくさんのものが見えているはずです。でも、ほとんどのことを覚えていません。いくつかのことを覚えているとしたら、それは関心を持って見ていたからです。たくさん関心を持つことが出来る人は、いろんなものが見えるということです。

偏った見方

ある人にある物を見せました。その人は「◯」に見えたので、「円」と答えました。同じ物を別の人に見せると、その人は「▢」に見えたので、「正方形」と答えました。実は、ある物とは円柱でした。ある人は真上から、別の人は真横からだけ見ていたので、円柱とは気づけませんでした。偏った見方をしていては、本当が見えないといういい例です。たとえ斜めから見たとしても、斜めの角度によって見え方はいろいろです。たった1つの円柱でさえ、あらゆる見方をしなければ本当の形は見えてきません。一番困るのは、〇に見えたから「円」と答えた人が、間違っているわけではないので、いつまでたっても、自分は偏った見方しかしていないことに気づかないことです。「別の側から見てみる。」大事なことです。

手伝いの効果

子供たちには、出来るだけ家の手伝いをさせてほしいと思っています。手伝いには2つの効果があります。一つ目は家族ということを考えるようになることです。自分がしたことで家族の誰かが助かったり、みんなが喜んだりすることで、家族の中の自分ということを考えるようになります。もう一つは、手伝いが学習になることです。たとえば、お風呂掃除では、何が必要で、どうするときれいになって、どんなときに自分まで濡れてしまうか、物事の前後を考えるようになります。学校や塾では教えられない学習が、手伝いにはあります。

「頑張る」なんて言葉はいらない

私は子供たちに時々「『頑張る』なんて言葉はいらない。必要なのは、何をするかという行動や。」と言います。テストで結果が出なかった時、子供たちは「次は頑張る」と言います。ところが、「何を頑張るの?」と聞くと具体的な言葉が返って来ません。気持ちだけ「頑張る」と言っても、何をするかという具体的な考えがなければ、行動に移せません。

書いただけで覚えられなかったのなら、声に出して読みながら覚えましょう。せっかく覚えたものを1週間で忘れるなら、3日目くらいに覚えているかどうか確かめましょう。いろんな行動を積み重ねていった結果を「頑張った」と言います。

「ながめる」「見る」「観察する」

料理番組を見た後でその料理が作れるかどうかのポイントは、どんな意識で番組を見ていたかによります。作ってみようと思って見ていたなら、作り方に注意をしていたので作れます。ところが、ただ「おいしそう」と思って見ていただけなら作れません。

勉強も同じで、絶対に分かってみせると思って、言葉のひとつひとつに気をつけて問題を見ていると、分かってくることがあります。ただなんとなく見ていたのでは問題のポイントに気づくことは出来ません。

「見る」というのにも「ながめる」「見る」「観察する」というレベルの違いがあります。「観察する」というくらいの意識で問題を見ましょう。分からないと思っていたことでも、見えてくることがあります。

親が我慢

親ならば、子供には我慢の出来る子に育ってほしいと思います。これから先、困難なことにぶつかった時に必要な力のひとつです。では、どうすれば我慢の出来る子に育つのでしょうか。それは、親が我慢強くなることです。

例えば、ゲームを買ってほしいとごねている子供がいたとします。しばらくほっておいた親が、「もう、この子は我慢が出来ないんだから。」ということで買ってあげたとすると、この場面で我慢できなかったのは、子供ではなくて親です。ごねる子供をほっておく我慢が出来なかったということです。

日常のいろいろなところに我慢強さを育てる場面があります。お父さんお母さん、我慢強くいきましょう。